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手紙 Letter



子どもの夢

 『自分は』医者に向いているのかなぁ・・・』
 原稿の依頼を受けた日の診療を終えた夜、ふとそんな事を考えている自分がいた。というのも僕自身が医者になるなんて全く思いもしなかったことだったからである。
 小さい頃から本を読むことが大好きで、本を読んでさえすればおとなしかった少年は、いつしか自然と小説家になることを夢みていた。中学生になると一日一冊は小説を読み、中学三年生では処女作を完成させている。
気に入った言葉は必ずメモをとりながら、いつか芥川賞と心震わせていたのが昨日の事のようである。
 しかしそんな幸せは母の癌発病によって脆くも崩れ落ちていく。高校二年生の十一月、父から母が入院した病院の屋上で告知されたその日をもって、僕の進路は医学部と変わることになる。母を奪うことになる癌と戦う、ただその事だけのために。
 それは決して夢ではなくむしろ厳しい宿命とも言えるのかもしれない。
 母が亡くなるまでは幽明はるけく隔つことへの恐怖にも似た不安感の中で、そして母亡き後は疾風吹きすさぶ嵐の中にも似た焦燥感、虚無感の中で、ずっと医療と対峙してきた。
 だからこそ『こころ』と『おもい』をいつも大切にしてきた。いや『こころ』と『おもい』を大切にしなければ生きてこれなかった・・・。
 しかし面白いものである。
 次第にその宿命とも言うべき医療への道が自分の夢へと変わっていったのである。
 『こころ』と『おもい』をいつも大切にするといい、『こころ』と『おもい』のある人は必ず幸せになれると思うし、自然と自分を夢掴むことができるのだろうと感じている。何になりたいとか何になって欲しいではなく、笑顔で人に優しくできることこそ、自分の夢を実現させる第一歩であることを子どもたちに教えてあげたい。

     PS. 『医者をやめたら小説を書こう。』と思っている自分がまだいます。


                                        笹本 明義

 〜コメント〜

 私は世田谷区立明正小学校の校医をやらせていただいてます。そのPTAから子どもの夢というお題を頂戴して書かせていただいたものです。(2007.4)
 母の死がなければ医師になっておりません。皆様にこの文章を読んでいただくこともなかったと思います。



小児科医としてのふたつの目

 『先生、僕の手を使いなさい。』
今から22年前に言われたこの言葉を、私は忘れることはないだろう。
昭和57年5月、生まれてはじめての皮肉テストはなんと青木先生の左前腕であった。
この時青木先生の皮膚からは出血を認め、もちろん皮膚テストは失敗した。
(以後、教えられないくらいの皮膚テストをおこなっているが、いまだに失敗している。)
 しかし、成功するか以前に私の手が震えていたこと、そしてもう一つ、それは確信に近いものを感じていた。
 『この先生を師事してよかった!』
 小児科医としての資質として必要不可欠な根っこ(小児科医としてのふたつの目)を私は先生から教わっている。
 ひとつは、患者を診る目。
 もうひとつは、患者を受け入れる目である。
このふたつの目がそろって初めて、信頼される小児科医になれると思う。
信頼される小児科医になるまず最初のハードルは、患者を診る目を作っていくトレーニング・・・である。
 しかしふたつの目のハードルである『患者を受け入れる目』についてはなかなか厳しいものがある。
経験だけでは越えられるものではなく、その人の人となりが重要だからである。
 たくさんの小児科の先生をみてくると、このふたつめのハードルを越えられない先生が多いのに気づく。
 中にははじめから越える気持ちを持っていない人も目の当たりにする。
 自分自身の中にある理屈や正義が邪魔をするかもしれないし、ひょっとすると『患者を診る目』が邪魔することだってある。
 ある時、青木先生に紹介した患者さんのお母さんから、『青木先生って何だか吸い込まれていく雰囲気を持っていますよね。』と言われた言葉が印象的だった。
 22年間ずっと、先生のこのふたつの目、特にふたつめの『患者を受け入れる目』に惚れ続けている。
 あこがれているし、恐れ多いが目標にしている。
 きっと先生に皮膚テストをしたその時から自分の目標になっていたのだと思う。

      PS. 先生、長い間のご指導、本当にありがとうございました。
         不詳な弟子ですが、これからも宜しくご指導ください。

 〜コメント〜
 
 青木継稔先生は私の小児科の師匠です。
2005年東邦大学医学部小児科教授を退官する時、出された文章にそえて。
                                            2005.4



飯倉洋治先生追悼とそれに対する手紙

 〜コメント〜

 飯倉洋治先生との出会いはセンセーショナルなものでした。
男女関係でいうと「一目ぼれ」、もう亡くなられて12年経っていますが、孫の和貴を診療していても3歳の子に緊張している次第です。
                      2003.3



開院時のご挨拶

 今、『心の医療を』をめざしてー
 小児の出生数が減少するのと反比例してアレルギー疾患は増え続けています。
平成元年よりアレルギー認定医、平成4年より上のアレルギー専門医制度がスタートしましたが、まだまだその数が少なく、アレルギーという病気を本当に診てくれる医師が少ないのも現実です。『アレルギーは始めよければ終わりよし』と言われるようにアトピー性皮フ炎にしても気管支喘息にしても、症状が出てから比較的早い時期の対応が大切です。
なぜならばその時期の対応その後の治療や予後を決定する重要なポイントだからです。
 大病院をでて、プライマリー・ケアーと共に小児科医療及びアレルギー診療を地域医療に生かしていく、また生かしていきたいという想いが日に日に強くなっていくなか、小さな城を構えることになりました。11年間の小児科専門医としての経験を生かしていきたいと考えております。
 どんなことでもお気軽にご相談ください。

 〜コメント〜

 1993年成城ささもと小児科を開設した時の挨拶文です。
文章がかたいですねー。
             1993.4



患者さんからのお葉書とその返事

 〜コメント〜

 長い長い外来を終えて、ふとポストに入っていたこの一枚。
 私が報われた瞬間でした。この匿名希望さんからのお手紙を頂いて、すぐに書いた返信の手紙(以下にのせました)
「匿名希望さんへ」と書いて院内に出してありましたが、ついぞ持って行ってはいただけませんでした。
    2007.12

返信



日本小児アレルギー学会誌

 〜コメント〜

 よく見てくださいね。
第1巻第1号第1ページですよ。
 気持ちよかった!
           1987.1



「20周年をむかえて」

やさしさが 手にとるように よくわかる 西井の文字を 心刻みて


 この短歌は、1993.4.3 成城ささもと小児科・呼吸器科が開院したその夜に詠んだものです。
 この短歌の中の『西井』とは、西井美代様といってささもと小児科カルテ番号1番の患者さんです。
 心停止している西井美代様と最初に出会ったのは、1991年大島赴任の時。
 救急隊からの連絡で西井様の自宅に駆けつけ何とか蘇生に成功しました。
 喘息をもっていた彼女は、その後私が診させて頂きました。
 彼女は何とか恩に報いようと、1993.4.2 夜、大島を船で出発し、朝の7時から二階のシャッター前で並んでくれたのです。
 現在88歳、大島の老人施設にて静かに時を過ごされています。



 開院当日は土曜日でしたが、32名の患者さんにいらしていただき、午後の3:00まで診察したのを昨日の事のように覚えています。
 診察後その当時受付をしていた妻も、現在事務長の岩谷さんも目に一杯の涙を浮かべて抱き合っていましたし、私はトイレの中で声をころして泣きました。



 あれから20年・・・。
 ささもと小児科の理念である『今、心の医療をめざしてー』は、『患者さんの想いに心寄せる』こと。
 どんな思いで今日この外来にいらしたのかをどんな時にも考えていこうといつも思っています。
 医療は人と人とが繋がってはじめて成り立つもの。
 そこにデジタルは要らない。
 ですから今はほとんどの医院で使用している電子カルテはありません。
 カルテはその方の歴史であり教科書です。
 ほとんど解読不能のきたない字で書かれたカルテで何がわかるの?と疑問をなげかける方もいらっしゃいますが、こんな宝物はありませんし、そのカルテが厚くなればなるほど力を発揮して来ます。
 何年分もたった15秒ほどでみれるのですから。

 

 私の性格上、常に熱く語ってしまうので、当然のことながらささもと小児科にいらしてくださる患者さんも心熱い方が多い!!
 みなさん本当に優しい人々だなぁと思います。
 そんな大好きな皆様に支えられての20年間。
 このことこそが私のプライドです。



 20年前の開院当初、4歳・3歳だった二人の息子は、『ここはお父さんの夢がかなったところだよね。』と話してくれました。
 決して中に入ってはいけないと言われていたので、入り口のガラスごしに幼稚園の帰りに覗いていたのです。
 そんな息子の一人は研修医、一人は6年生・・・
 あれだけ父の大変さを見ながらも、小児科医を目指しそうです。
 数年後には、火曜日・木曜日の外来に座っているかも(?)しれません。
 ちなみに、ささもと小児科のロゴマークは、長男が描いたもののパクリであります。



 気がつけばもう自分が若くない年になってまいりましたが、患者さんである多くの子ども達にパワーをいただきながら頑張っていく所存です。
 至らない点多々あろうかと思います。
 何卒ご容赦いただきご指導ください。


  20年間、来院してくださった皆様にありがとうございます。


     腰をあげ、ふと見上げれば 目がかすむ 時計の針の 早き足音

 〜コメント〜
 
 2013.4.3 成城ささもと小児科20年を迎えて皆様にお渡ししたものです。
医院にかかわるすべての人々にささえられての20年でした。



患者さんから頂いた手紙

 







〜コメント〜

 赤ちゃんの頃、大きな病気で肺を半分切除した和瑚ちゃん。
その和瑚ちゃんファミリーが福岡に帰ることになり、いただいた手紙。
どんな病気でも明るく前を向いて を教えてもらいました。












成城ささもと小児科・アレルギー科

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